矢口です。
この週末は、運動会に藤原印刷心刷際に、そしてりんご音楽祭と、なんとも賑やかな週末に。
我が家的には、息子の中学の文化祭と娘が子供お囃子に出る地元のお祭りがあり、妻は朝からてんやわんや。
天気も雨の降らない曇り晴れの2日間になりそうで、非常に楽しい秋の週末ととなること間違いなしですね!!
皆さま、どうぞ楽しい週末になさって下さい!!
さて、先の火曜日は平日振り替え休日の息子と2人の時間。
当初の計画では燕岳日帰り登山を男2人で予定していたけれど曇り雨の天気予報に断念。
それでは行きたかった富山市の富山県美術館へ行こうと決めたのですが、生憎の休館日。
そんな変更変更の末のC案として小布施岩松院と北斎館、葛飾北斎の旅を実行。
まずは、葛飾北斎が書いた八方睨みの鳳凰図で有名な曹洞宗 梅洞山 岩松院へ。
※写真は岩松院さんのホームページから転載(建物内、写真撮影禁止)。
本堂中央(大間)の天井に描かれている鳳凰図。
葛飾北斎88歳から89歳にかけての作品といわれています。
北斎は83歳を初めとして小布施に4回訪れており、4回目の滞在約1年をかけて大間天井に鳳凰図を描き、翌年江戸に戻り、90歳で亡くなっています。
大きさは畳21枚分。
作成から160年以上たっていますが塗り替えは1度も行ってなく、葛飾北斎が描いたそのままの絵が見られます。
俳人小林一茶が「やせ蛙 負けるな一茶 是にあり」という句を詠んだ蛙合戦の池もこのお寺の境内にあります。
豊臣政権が用いた桐紋(きりもん)。
こちらは福島正則公の霊廟、遺骨を埋葬し「海福寺殿前三品相公月翁正印大居士」の戒名を刻んでいます。
遺品には、左遷状や太閤葬儀行列帳などがある。
福島正則公は元亀天正年間の戦国武将・豊臣秀吉の重臣として賤ケ岳の戦いでは「七本槍の第」と称せられた。
また関ケ原の合戦でも勇名をはせ、広島城(49万8千石)の大大名になりましたが幕府の謀略により元和5年(1619)秋、この信越地方(4万5千石)に国替えさせられました。
悲運を嘆きつつ在信5年、寛永元年(1624)7月13日 64歳で薨じています。
秀吉子飼い、血縁に当たり若き頃から秀吉とともに歩み、武勇の誉れ高き福島正則公が小布施の地で亡くなり埋葬されていたこの事実。
戦国史大好きな私は、今回の息子とのドライブでこの事実を知ることが出来た事を一番感動した次第。
そして北斎館へ。
「浮世絵(うきよえ)って何??」と息子に聴かれた私は簡単な言葉で返答することが出来なかった。
ので、知識をインプット。
浮世絵とは、江戸時代に発達した風俗画の一様式。
遊里と芝居町に代表される都市の歓楽境、いわゆる「浮世」に取材し、主要な表現手段として大量生産のできる版画形式を用いた点に特色がある。
その当時、日本は勿論世界でもプロの絵師が描いた絵画は一部の裕福な人々だけが楽しめるもの、しかし浮世絵は木版画によって大量生産することで、今のお金で数百円程度の安さで販売することができ、庶民の娯楽として発展していった。
今回のドライブで、浮世絵を簡潔に説明することが出来るようになりました♪
息子は何気に美術館巡りが好きで、一緒にどこかの美術館に行くたびに張合いがあります。
そして、北斎館で私が一番反応したのが休憩室のウェグナーの椅子CH25とCH24。
美術館はこう言うところにも拘っておられると素敵だと思う。
北斎館を後にして新栗のシーズンインで賑わう小布施の街中へ、3連休明けの平日だというのに老若男女ごったがえす。
多くの方の狙いは栗菓子の老舗「小布施堂」の「朱雀」モンブラン、整理券を取りご自分の番を待つ。
でも、私は順番待ちもする気も無く、しかも「小布施堂」の「朱雀」の前評判を聞いていたので、オーソドックスなモンブランがいただける桜井甘精堂さんの栗の木テラスへ。
とても美味しかったです^^
息子と2人男ドライブ。
道中はバスケットの話や勉強の話し、そして私の仕事や趣味の話をした。
お寺や美術館では歴史の話など彼の質問に受け答える。
彼もまもなく14歳。
まだ、バスケットと言う共通の興味がありますので、我が家は父子でよく話している方だと思います。
それでも、純粋無垢、親の言う事を何の疑いなく素直に聞き入れる年頃は過ぎ、今はもう多感な青年期に突入した事を感じている私。
これからは友達との時間が大切で、もっと親との時間が少なくなってくるはず。
それでも、こうやって2人で気軽に出かけたいものだと思った楽しい息子とのドライブでした。